私達は、日本画(Japanese painting)という単語がフェノロサによって初めて使われたこと、そしてその概念が洋画との対概念として想起されたことを知っている。長らく私も、歴史的経緯に鑑みて日本画の歴史イコール日本美術院の歴史であるかのように理解してきた。

 しかし、今現在すべての歴史的経緯を忘れ去って、自身の「日本画」の概念だけに適う作品群を考えてみると、「日本画」の歴史とは、円山応挙を始祖とし竹内栖鳳を経て徳岡神泉と福田平八郎に至る京都画壇の歴史だったのではないかと思う。

 今になってみれば、日本美術院の活動は、詰まるところ狩野派の近代化運動だったのであり、それにしては琳派の成果を取り入れることでしか秀作を生み出せなかったことでもわかるように、明確なアプローチの軸を持てなかった運動の衰退の歴史だったのだと思う。

 ひとつのアプローチは、行けるところまで行った時に初めて終わることができる。その意味で徳岡神泉と福田平八郎の画業に至ることができた京都画壇は、「日本画」の終焉を自ら祝うべき輝かしい存在である。

「円山応挙から近代京都画壇へ」展に思う