宗達が町絵師として仕事を始めた十七世紀初頭の絵画は、永徳によって完成された多元的空間の圧倒的影響下にあった。狩野派はもとより長谷川等伯や海北友松など漢画系の力量ある画家達も、永徳流の多元的空間を受け入れずには御用絵師としての仕事は成立しなかっただろう。京都で絵屋を営んでいた宗達の絵画的基盤は、平安時代以来のやまと絵である。恐らく絵屋としての「俵屋」の主力商品は、やまと絵系の扇や料紙だったのだろう。しかし、当然水墨画や漢画系の屏風絵の需用も多かったはずである。需用のあるものを作るのが生業であるとしても、流行りものを再生産しているだけでは他業者との差別化はできない。他業者との差別化ができなければ、絵屋として存続していくことはできない。そのあらゆる媒体に於ける差別化が、永徳流の多元的空間とは根本的に違う宗達流の多元的空間を生み出す原因の一つになったのである。